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コラム

雑誌『地理』(古今書院)の「シリーズ 旅の記憶」と旅行ガイドブック『地球の歩き方・ラオス』(ダイヤモンドビック社)の過去の版に執筆したコラムを掲載しています。文章を若干修正しています。また写真も省略していますのでご了承ください。

ラオス北部のケシ畑を訪ねて

地理 42(6): 38-41,1997年 (Web用にオリジナルを編集しています)

  私にとっては第二の故郷とも言えるラオスを訪れたのは、ちょうどラオスを離れてから二年の歳月がたち、これから夏に入ろうかとする季節であった。

  多忙極まるサラリーマン生活にピリオドを打ち、青年海外協力隊の隊員としてラオスの首都ヴィエンチャンの地を踏んだのが1992年の4月。そして2年間活動した後、1994年4月に私は日本に帰国した。帰国後もラオスにまた行きたいと思い続け、その思いがかない、今年の2月17日から3月27日の40日間、UNDP1)のプロジェクト調査を行うことになった。

ヴィエンチャンからムアンサイへ

  首都ヴィエンチャンから調査地ウドムサイの県都であるムアンサイまでは、距離にして約450Kmである。日本でこの距離なら、鉄道を使って5時間ぐらい、車でも7時間ぐらいで着くだろうが、ラオスではそうはいかない。まず第一にラオス国内には鉄道が存在しない。そして第二には、国道13号線以外は、車の移動が困難な道路状況であるというのが大きな理由である。

  従って、国内の移動は飛行機となる。鉄道を敷いたり道路を整備するよりは、空き地に飛行場を造る方がずっと安上がりなのだ。調査地へは飛行機で最寄りの空港まで行き、それから車で行くことになる。私はラオス入国後、UNDPのラオス事務所に挨拶した後、すぐヴィエンチャンから調査地のウドムサイ県都のムアンサイへの直行便を外国人料金(国民の4倍)を支払い予約した。

  出発当日の2月21日、天候は雨。空港で待つこと5時間、しかし飛行機は離陸してくれなかった。台風でもない普通の雨である。たかが雨で離陸しないとは情けない飛行機だ、などと思い、仕方なく宿泊していたヴィエンチャンの友人宅にまた戻ることになった。翌日は雨も上がり、私を乗せた中国製Y-122)は約40分のフライトを終え無事ウドムサイに着陸した。その時、私は前日離陸しなかった理由がようやく分った。このムアンサイの空港は、滑走路(…と呼べるかどうか分らない)が草原だったのである。雨が降ると一面水浸しとなり滑走路は貯水池と化すのである。

ラオス北部ウドムサイの県都のムアンサイの市場

  空港にはUNDPのウドムサイ・プロジェクト事務所のブンタン氏が迎えに来てくれた。現地事務所では調査に同行する旧ソ連留学経験者の農業技術者プーヴィエンと元ラオス女性同盟で女性開発専門家のボラシットの二人のスタッフ、そしてチーフ・テクニカルアドバイザーのオランダ人農業専門家のポールらとの打ち合わせや調査項目の検討を念密に行い、一週間後に現地へ行くことになった。ポールは私が青年海外協力隊時代からの友人で、ムアンサイ滞在中も国連所有のラオス建築様式のすばらしいゲストハウスやオフロード・バイクを提供してくれたりと、何かとお世話になった。

  ムアンサイに滞在した日々は打ち合わせのみならず、町周辺をバイクで散策した。タラート(市場)へは毎日出掛けて、食料を調達しに行ったり、どんなものが売られているかを見に行った。首都ヴィエンチャンのタラートはタイ製品が多いのに対し、ここムアンサイのタラートは圧倒的に中国製品が多い。町にも中国人が多く、宿や店先の看板はラオス語と中国語が併記されてる。やはり、距離的に中国に近いことがタラートの商品にも影響しているのだろう。私が毎日買いに行った焼き鳥(ピン・ガイ)屋さんのお姉さんも中国人であった。ピン・ガイをつまみとして飲むビールも「ブルーリボン」という銘柄の中国ビールであり、350cc缶の値段は500kip(約50円)である。同容量のラオス製缶ビールの「ビア・ラオ」が800kip(約80円)であるから、味はともかく自国製よりも安い。

  また、ここのタラートは、多様な少数民族が集まるのが面白い。カラフルな民族衣装を身につけた人々が山から何時間もかけて下りてくる。自分達の村で採れた野菜類や森から集めた薪を売りに来る人、また日用品を買いに来る人など様々な人が集まってくる。モン、カム、ラオ・ホワイ、ラオ・コ etc..、衣装だけを見ても複数の民族が来ているようである。同じ民族でも、住む地域によって衣装の装飾や色などが多少異なるので、詳細に区別すると何十もの民族がこの朝のタラートに来ている。この朝のタラートだけは、何度見ても飽きない。

ケシ3)の栽培

  タラート以外にも、近くの山々にはハイク気分でよく出掛けた。特に、何度か足を運んだのは、ポールから教えてもらったケシの畑である。町からバイクで20分ほど山に登ったところ(標高約1,200m)で、バイクを道路脇に止めて、薮の中を10分ほど歩くと、山間の狭い土地で栽培されているケシを見ることができる。ケシの他にも、レタス、キャベツ、葉菜類などの高原野菜を栽培していた。近くには湧水があり、水はそこから供給される。

  一般に、ケシ畑は人目に触れるところでは栽培されていない。4~5年前までは、かなり大胆に栽培されていたらしいが、現時点で存在するケシ畑は、容易には探し出せない山奥に存在するのがほとんどである。ちょうど、私が訪れた2月は、ケシの花が咲き終り、樹液(阿片)を採取する時期であった。何回か訪問して、やっとケシを栽培しているモン族の女性に会うことができた。その女性は私の事をかなり警戒しており、はじめは何を質問しても無視していたが、私が外国人で政府とは無関係の調査で日本から来たと分かると、少しだけ質問に答えてくれた。彼女は「どこに売るんだ」という質問に対して、「収穫期が終わった頃に、高い値段で買いに来る人がいる。その人に売るだけさ。」と言っていた。それがどこの誰だか、どこの国の人かは私には教えてくれなかった。

  ここで、ケシ畑が急激に減少したのは何故かという疑問が残る。どのような機関がケシ畑を処分したかは正確には分らないが、各民族の自家消費用の畑(すなわち自分達で吸引する分が収穫できる畑)までは処分しなかったらしい。民族によって習慣が異なり、阿片を嗜む民族も存在することを処分した側は承知していたのである。

  現在、このケシ栽培問題に関しては、国連薬物統制計画(UNDCP: United Nations Drug Control Programme)という国連機関が、ケシの栽培をしていた山岳民族が栽培を止めても生活できるような収入源を得られることを目的とした、ケシ代替作物の栽培技術導入などを行っている。麻薬問題は、麻薬の原料となる途上国でのケシ栽培を止めさせるべきであるという短絡的考えでは根本的な解決策とは言えない。真の解決策というのはそれを収入源としていた民族の生活まで考えての解決策であるということが、UNDCPの活動から我々も学ばなければならない。

  ケシ畑を処分した機関の対応ひとつをとっても、日本のような一つの民族が多数を占める国とは違い、数にして60以上とも言われる少数民族が存在するラオスという国を象徴しているのである。本州とほぼ同じ面積に人口が僅か400万人しかいないラオスは、民族的、政治的、経済的に様々な意味で、今変わろうとしている。それが、ケシ畑からも見えてくるのが今のラオスである。

» ラオス北部の山村の朝に続く


注)

  1. 詳しくは国連開発計画(UNDP: United Nations Development Programme)を参照ください。主に、途上国のプロジェクト開発計画、調査、資金調達などを担う機関。ラオスの国連プロジェクトの多くはこのUNDPが担っており、ラオスにおいては非常に重要な機関である。
  2. ここにラオス航空のY12の写真があります。中国の航空機製作部門が製作した12型で運(YUN)12というのが正式名称。乗員2名、乗客19名。80年代に開発され、コックピットはかなり電子化されている。エンジンはアメリカのPlatt&Whitney社製PT-6。
  3. 熊本大学薬学部付属薬用植物園の写真と説明を参考にしてください。高さ約1メートルで白・赤・赤紫・紫などの四弁花を開き乾果は球形の越年草。ラオスでは1~2月頃開花し、2~3月にかけて複子房の発達した果実を実らせ、その未熟の果実に傷をつけて出て来る乳液を採取する。それを乾燥して得られるゴム状物質が阿片で、それを精製して麻酔薬モルヒネなどが得られる。

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ラオス北部の山村の朝

地理 42(8): 28-31,1997年 (Web用にオリジナルを編集しています)

» ラオス北部のケシ畑を訪ねてから続く

  現地に滞在した日数は10日間。3月28日、出発前に積み込んだ飲料水20リットルに加え、市場で缶詰やインスタント・ラーメン、インスタント・コーヒーなどを買い込んで県都のムアンサイを出発。同行するスタッフによると、食べ物は米しかないというのである。じゃあ、一体住民は何を食べているんだろうという疑問をスタッフに投げかけると、「まあ行けば分かるさ」と何とも不可解な答えが返ってきた。

  ムアンサイから距離にして約115キロメートル離れた調査地のポンサワン村とドンナー村までは、国連所有のトヨタ製ピックアップトラックを駆って出かけた。国道2号線は穴ぼこだらけでまともに車が走ることが出来ない。それでも何とかベテラン・ドライバーの努力で4時間後には、調査地の郡都ムアンフンに到着する。

  ムアンフンでは、郡の事務所に調査に入るための手続きを行い、郡の役人とともに調査地に向かうことになった。この郡の役人の役目は、調査地の村長に私達の調査を円滑に進めるために協力してくれるようにと言うことである。役人の説明の甲斐もあり、村では全面的に調査に協力してくれることになり、調査期間の宿泊に関しても村長宅に滞在できることになった。

  今回の調査は、UNDPのラオス北部小規模灌漑計画の次期プロジェクト実施地域を決定するための初期調査としての役割を担っていた。プロジェクトの目的は、森林保護を目的とした焼畑削減と農民の生活基盤確保のための米の収量の安定化で、今回の調査は、農村の現状と農民がどれだけ現状の問題点を認識しているのか、新しい技術を受け入れる気があるのかなどを総合的に調べることが目的であった。

  到着後、村長や村のリーダー、長老達への挨拶が済み、いよいよ食事の時間となった。私は村民はどんなものを食べているのか、そしてこれから何がでてくるのか、それが出発前からずっと気になっていた。

  一日目の夜食は、村長の妻・娘、そして近所の婦人らが賄ってくれた。メニューは、ラープ・ガイ1)、グルタミン酸ナトリウムの味が強いキャベツ・スープ(ケーン・パック・カランピー)、そしてもち米(カオ・ニャオ)。過去に2年間ラオスで生活したことのある私にとっては、それらはあまりに一般的な来客時のラオス料理であり、米しかないと言われていた私は逆にびっくりしたのであった。日本で言えば、お客様が来た時に寿司や刺し身を出すのと同様のメニューと言ってよい。普段はあまり食べることがない飼っている鶏を料理してたのである。この日以外にも、アヒルが出てきたりもした。住民に聞くと、大人数が一緒に食事をする時しか、家禽類は食べないらしい。電気がないため、余った肉を保存する手段がなく、その日のうちに全てを食べなければならないからである。私は調査一行が来たために、彼らの大切な家禽類を食べてしまうことに心苦しさを感じたが、私達をもてなしてくれる気持を素直に受けとめないほうが彼らに対して失礼にあたると思い、調査期間中は彼らの気持に甘えることにした。

バーシー・セレモニー

  調査地だけに限らず、ラオスのどこでも共通に行われる行事が歓迎セレモニーである。この行事はラオスでは、「バーシー」もしくは「スークァン」と呼ばれる行事で、この場では、お客である私たちに幸せとこれからの繁盛を祈るために、住民が手首に白い木綿糸を結び付けてくれる。これは、歓迎時だけでなく、送迎時にも行われるし、結婚式、子供の生誕など、様々な機会に行われる。私たち調査スタッフは、調査の途中で歓迎の意味でポンサワン村にてバーシーを開いてもらい、調査の最終日にはドンナー村で送別の意味でのバーシーを開いてもらった。

  このバーシーの席で、必ず振る舞われるお酒が、「ラオラオ」と呼ばれる、もち米から作られた蒸留酒である。アルコール度数は、通常40~50°であるが、中には着火する程強いアルコール度数も作られ、私が調査した土地では運悪く火が付くようなラオラオが作られており、幾度となく飲まなければならなかった。ラオラオは、回し飲みが慣例となっており、日本のぐい飲み程度の容量のグラスに入ったものが隣の者から回って来る。これを、一気に飲み干し、グラスを逆さにして飲み干したことを示し、また次の者に注いで渡す。これが、宴会の席では、何度も繰り返されるのだから、本当にたまったものではない。

  宴会の席だけなら、「仕方が無い、飲んでやろう!!」という心の準備(!?)をして、ラオラオ攻撃に備えることができるが、今回の調査ではそうはいかなかった。宿泊した村長の家ではラオラオが朝食から出てくるのである。「まぁ、これを一杯引っかけて行け!」という意味である。朝から酔っ払って、そして村民への聞き取り調査に入る。村民の家に行くと、そこの主人は、「まずは、これをやってから…」といって、どこからかラオラオを出してくる。私は、午後になると千鳥足で調査をしなければならない日々であった。しかし、ラオスでは酒を飲むことによって得られる村民との連帯感は聞き取り調査にとっては欠くことができないものである。まずは、村民と親密になり、それから核心に迫るというのは、ラオスに限ったことではなく、聞き取り調査の基本ではなかろうか?

調査地の生活

  ラオスは雨季と乾季が明確に分かれ、雨季になると毎日のように雨が降り、その逆に乾季になると、全く雨の降らない日が幾日も続く。最も暑い時期は4月で、日中の気温はヴィエンチャンなどの中部、サバナケットなどの南部の町では摂氏40度を越え、北部山地でも、35度を越える。調査地付近は平野部が非常に狭い盆地にあり、高度450mで周囲は2,000m級の山々に囲まれている。石灰岩がごろごろ転がっており、地形的にはカルスト地形上に調査地は位置していた。

  調査地の村は、電気、上下水などの基本的なインフラが整備されていない。もっとも、ラオス北部の農山村では、整備されているところのほうが数少ない。水は泉から得ている。この泉は、飲み水を汲んだり、洗濯をしたり、水浴する貴重な水源としての役割を担っており、吹き出し口から順に、飲み水用、洗濯用、水浴用に使用するルールが住民によって定められている。

  電気に関しては、村にある製材工場が発電機を持っているが、それは限られた住民しか利用することは出来ないので、一般家庭は電気の無い生活をしている。炊事は薪を使用し、夜の生活は灯油ランプと蝋燭に頼る。したがって、生活も自然に、太陽を有効利用するリズムになる。私も、さすがに最初の2、3日は夜の8時には寝付けなかったが、次第に朝の5時には目覚めて、夜の8時には眠くなるようになった。

  電気がないと、日光がある時間を無駄に過ごすのがもったい無いように感じてしまうのだ。生活のリズムは日の出・日の入りなどの自然に大きく左右されている。住民のデイリー・リズム調査で、「あなたは何時に起床しますか?」という質問をある農民達にした。その答えは「ガイ・カン・ソントゥア(鶏が2回鳴いたら)」という回答であった。時計を持っていない住民は鶏で起床時刻を知るのである。その調査の翌日、私たち国連スタッフは、いつもより早起きして、鶏が鳴く時刻を時計で確認した。夜が明けはじめ、村に朝靄が立ち込める中、2回目の鶏の鳴き声は4時半頃に聞こえた。

  季節的には真夏にあたる3月ではあるが、朝はジャンバーを羽織らなければ風邪をひきそうなぐらい寒い。そんなラオス北部の人口200人しかいない山間の村の朝。誰もいない道で鶏の鳴く回数を気にしながら、時計を見ている私たちが周りの空気に馴染んでいないような、そして場違いのような気がしてならなかった。

  私にとって、このように自然の節理に従った生活をしている住民と時間を共にできたことは非常に貴重な経験であった。今回の調査で一番考えさせられたことは、村民の生活は貧しく、どうしたら改善されるのかということではなく、絶えず時間を気にしている私たちは、(物質的に豊かかどうかは別にして)動物としての人間本来の生活を営んでいるのだろうかということであった。


注)

  1. 詳しくはWikipedia Larbを参照ください。そぼろ状の肉料理。通常は牛肉を使ったものを単に「ラープ」と言っているが、鶏肉を使った「ラープ・ガイ」やアヒルの肉を使った「ラープ・ペット」、そして肉ではなく、魚を使用した「ラープ・パー」など様々なラープが存在する。ラオスで最もポピュラーでありかつ代表的な料理。

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ラオス山村の漁法

『地球の歩き方 ラオス '01~'02年版』 p.33,2000年

  「ドーン!」

  爆音が森の中に響く。猟銃だろうかと思ったが違うらしい。一緒にいたラオス人に聞くと、魚を捕っているのだという。さっそく現場に行き、その漁の様子をうかがうことにした。爆音の原因はダイナマイトであった。この漁法は、ダイナマイトを爆発させて仮死状態にさせて浮かんできた魚と水中でよろよろと泳いでいる魚を、水中眼鏡(ナーカーク)をかけた漁夫が捕獲するという方法である。見ていると、1回の発破で20~30尾程度の収獲をあげることができる漁法として、近年、拡大しているようだ。

  しかし、どの村でも、この漁法が採用されているわけではない。ダイナマイト漁法は、漁夫自身が危険にさらされることに加えて、河川生態系が壊される可能性があることを住民は良く知っている。住民に聞くと、村長の許可があった時のみ行うことができる漁法だと言う。

  では、ほかにはどのような漁が営まれているのだろうか? 私が知っているウドムサイの山村では、大きく分けると、1.仕掛け籠漁、2.投網漁、3.囲い網漁+水中銃の3つの方法で漁労が営まれていた。

  まず最初の「仕掛け籠漁」であるが、これは日本の「ヤナ」とほぼ同じもので、ロック、チャンと呼ばれる竹製の籠をせき止めるように仕掛けるだけである。仕掛ける時期は水嵩が低い乾季で、時間はボートの通行がない夜間が多いようだ。昼間に仕掛ける場合は、ボート通行用のスペースを確保しなければならない。「仕掛け籠漁」は、多くの収獲が期待できるわけではないが、何もしないよりはやったほうがよいとういう感じらしい。いかにもラオ人らしい考えである。

  河川での本格的な漁は、「投網漁」もしくは「囲い網漁」ということになろう。「投網漁」は、縁に鉛が付いた網「ヘー」を川に投げて引き揚げる、日本の投網漁と同じである。水草が生い茂ったような、いかにも魚がいそうな所に網を投げ入れるのだが、それほど多くの捕獲は期待できない。さらなる収穫を目指して「網+水中銃」の漁法が用いられているようである。「水中銃」を使用する時の網は、投網ではなく、いわゆる囲い網のようなものだ。ラオス語では、「モン」と呼ばれるバドミントンのネットのような形状の網である。漁夫2人で河川の岸から対岸へ渡して囲うようにして魚を追い詰める。そして、「ナーニンパー」と呼ばれる自作の水中銃(銛をゴムの力で飛ばす銃のようなもの)を使用して魚を射止める。これは、見ていても楽しい。漁夫が川にナーカークをかけて数十秒間潜り、銛に刺さった魚を手にして、また水面に顔を出す。私もやってみようと思い、ナーカークを着用して川に身を沈めてみた。しかし、水中では見通しが悪く、1mぐらいしか見えない。とてもじゃないが、これじゃ魚なんか捕れそうにない。それにしても、ラオ人の目の良さには感心させられる。

  最近では、ガソリンエンジンを付けた木製ボートも多く目に付くようになった。そして、養殖池などを経営する世帯も増加している。最初に紹介したダイナマイト漁法も最近になって広がり、漁具にも近代化の波が押し寄せているようだ。

  いずれにせよ、ラオス、特に山間部に住む人たちにとって、魚は重要なタンパク源であり、漁は重要な生活の一部となっているのである。

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“森の民”ラオス人:焼畑と森林のこれから

『地球の歩き方 ラオス '01~'02年版』 p.128,2001年

  近年、環境保護の高まりから、森林保護に関心が寄せられているが、森林減少の原因は、大規模な商業的木材伐採、道路・宅地開発、そして居住者による焼畑での森林焼失という見方が一般だ。ラオスでは、焼畑による陸稲栽培が北部のポンサリー、ルアンナムター、ウドムサイ、ルアンパバーンなどで盛んであり、問題視されている。しかし、『焼畑=森林破壊の根源』説は、あくまでも先進国側からの一方的見方である。そもそも、焼畑は東南アジア、南米、アフリカだけで行われていた農法ではなく、昭和30年代までは日本でも行われており、さらに歴史を遡れば、ヨーロッパでも焼畑が行われていた記録がある。したがって、焼畑の農法自体は森林破壊の原因ではないことを最初に断っておく必要がある。

  土壌養分が少なく植物自身が養分を蓄えている熱帯・亜熱帯気候の森林では、養分を蓄えた植物を燃やして土壌に還元することが最も簡単かつ効率が高い耕作方法である。焼畑は耕作期間と休閑期間(耕作後森林が戻るまで放置しておく期間)のサイクルを適切に設定すれば、粗放的ではあるが、労働生産性が高く極めて持続可能な農法のひとつである。

  ラオスの人々は、焼畑以外にも森林を様々な用途に利用している。燃料、建築材用途のほかに、木の実を食し、樹皮で縄を編み、また、薬としても使うことができる樹種を先祖代々より伝承されている村もある。森林に住む動物からはタンパク質を補い、森林によって蓄えられた水は河川となり漁を行う。そして、村落外れの林地には「パー・サー」と呼ばれる埋葬林地が立地し、死者の魂は森へと帰るのである。まさしく、ラオスの人々の生活は森林に支えられているといっても過言ではないだろう。

  ラオスの森林状態は、場所によって様々である。ルアンパバーンに近い国道13号線沿いの山は、チガヤしか生えていない荒廃地と化していた。また、ウドムサイ県の山村では、今まで10年以上の休閑期間を設けるサイクルで焼畑を営んでいたが、現在では、わずか4年しか休閑期間を設けておらず、森林再生力の低下を招いていた。他方、適切なローテーションを守って、焼畑を持続させている村落の研究報告も多くなされている。このような差は、人口が焼畑耕地の許容範囲を超えているかどうか、そして適切な技術で焼畑が営まれているかどうかに大きく影響する。

  ラオスでは、ベトナム戦争による国内難民の発生に伴う過度の焼畑、また難民キャンプからの帰国者による新居住地での焼畑など、社会情勢の変動に伴い、局所的に過度の土地利用行われた森林が少なくない。また、人口の自然増加に伴う村落の分割、いわゆる「派生村」と呼ばれる新しい村の誕生も、限られた土地利用に大きな影響を与えている。一見、ただの森のように見えるラオスの山は、土地自体はラオス国有であるが、その利用権は、それぞれの村落ごとに厳密に決められているのである。すなわち、森林破壊は焼畑の問題ではなく、ラオス社会の問題とも言える。

  ラオス政府も森林の荒廃と減少、そして生態系破壊に危機感を抱き、FAOなどの国際機関の力を借りて森林管理に関する政令を1991年に定めた。現在、外国からの援助も含め、国と地域住民が一体となって森林資源の保護、増大、開発を図っている。

  森林は、山間地域住民の命綱となっているばかりでなく、その利用を見ることでラオスの現在社会すら反映している。ラオスの森林が今後どうなるか、長い目で見守っていきたい。

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桃源郷ポンサーリーを目指すウー川の旅

『地球の歩き方 ラオス '02~'03年版』 p.123,2002年

  ラオスを訪れる旅行者に人気の船旅と言えば、フアイサーイ~ルアンパバーンだが、最近、ウー川(ナム・ウー)の旅に人気が集まっている。起点はノンキヤウ、中継点はムアンゴイとムアンクア、そして終点はポンサーリー(ハートサー村)だ。

  ノンキアウへはルアンパバーンからバス乗継ぎを含めて5時間弱。ボートも出ているが、バスよりかなり割高だ。

  ノンキアウは小さな町で、市場も週に一度の定期市だけ。しかし、近年の観光客増加で10軒近いゲストハウスが営業している。観光ポイントもないため、暇つぶしにウー川に架かる橋まで行ってみた。ウー川の両岸から切り立った山々が天へと延びている。時間が経つのを忘れてボーッとしていると日が陰ってきた。川では水浴びする住民や無邪気に泳ぐ子供の姿が見える。

ノンキアウからムアンゴイへ

  翌日、次の目的地ムアンゴイへと向かう。陸路はないので移動手段はボートのみだ。船着き場で乗船客がいっぱいになるまでまつこと約2時間・・・。ようやく出発して、1時間半の川の旅でムアンゴイに着いた。

  ムアンゴイは歴史の古い町で、昔はムアンゴイ郡の郡都であった(今はノンキアウ)。正式名称はバーン(村)ムアンゴイだが、地元の人は「ムアンゴイ・カオ(古い)」と呼ぶ。この町に旅行者が来るようになったのは1999年からで、わずか数年間でゲストハウスとレストランは10軒以上になった。そうはいっても、オーナーのほとんどが農民で、木造民家を改築しただけの質素な造り。農繁期になればオーナーが居ないなんていう商売気の無さである。

  ここでも、やることは近くの洞窟散策とウー川での水浴びぐらい。しかし、ゲストハウスには4~5泊している旅行者の中が多い。のんびりとハンモックに揺られながら本でも読もうか・・・。そんな気分にさせてくれる不思議な町である。

ムアンゴイからムアンクアへ

  さらにウー川を上るとムアンクアである。ここから先は観光客の姿がぐっと減る。まわりの景色は山ばかり。途中、何カ所か急流があり、水しぶきをかぶりながらちょっとしたアドベンチャー気分を味わうことができる。約5時間の楽しい船旅だ。ムアンクアはウー川の河川交通とウドムサイからの国道が交わる交通の要所となっており、北部では比較的大きな町のひとつだ。ここはすでに、ラオス最北の県、ポンサーリーにある。船着き場から、曲がりくねった急なメインストリートを上ると、バスステーションの裏に常設の市場がある。時間があるので市場をのぞいてみた。売っているものは野菜や肉、そしてフー(米麺)の屋台しかない。プーノイやカムなどの少数民族の姿も見られるが、彼らは“少数”でなく、相対的には多数民族なのである。

ムアンクアからポンサーリーへ

  そして最終目的地のポンサーリーだ。ムアンクア~ポンサーリー(ハートサー)間は、雨季ならスピードボートも運航している。ゆっくりと景色を楽しみながらスローボートで行くもよし、スピードボートでスリルを楽しむもよし。ウー川最後の船旅を満喫しよう。スローボートで約5時間(スピードボートなら約2時間)でハートサー村へ到着。ポンサーリーまでは、トラックバスであと30分だ。

  ポンサーリーに着くと、誰もがラオスの他の町と景観が異なることに気付く。ここは中国なのか? そんな気分になってしまう。言葉もプーノイ語が普通に話されており、ラオス語ではない。そして、寒い・・・。多民族国家ラオスの魅力がここポンサーリーでまたひとつ、みえてくるであろう。

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